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藤岡拓太郎「大丈夫マン」

いきなりだけど、以前Twitterに存在した「餃子丼」という底抜けに明るい一般女性のツイートが当時とても好きで、その方が「知らない人が撮った、自分がたまたま映り込んでしまった写真を集めたい」というようなことをつぶやいていて、とても感動してしまったことを今でも覚えている。この世には、認識すらせずに自分がたまたま映り込んでしまった写真が無数に存在するのだ。と同時に、自分が撮った写真にも見知らぬ誰かが映り込んでいることに気付く。誰かの人生の中で自分は脇役でしかなく、しかし知らない誰かの写真にたまたま映り込んでしまうような、認識すらされないほんの少しの関わりで世界は作られている。

そのつぶやきの数日後、藤岡拓太郎がある1P漫画を投稿したのだけど、当時自分の中でそのつぶやきと漫画が強烈につながってしまった。その1P漫画が「キャベツだけ買った人」である。

なぜか定点で撮影されたカメラにたまたま映り込んでしまった、見知らぬ男の何気なくも少し奇妙な瞬間。この世には、人知れず起きている不思議なことがたくさんあって、僕らはそれを認識すらできない。しかし、藤岡拓太郎作品は恐るべき神の視点でそれを可能にしてしまうのだ。そしてそれこそが藤岡拓太郎という漫画家の作家性の1つなのだと思う。2017年から2020年に描かれた1P漫画を収録した作品「大丈夫マン」を読んで、そんなことを感じた。 

大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集

大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集

  • 作者:藤岡 拓太郎
  • 発売日: 2021/01/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


そんなフィーリングをもっともストレートに反映した作品が、大傑作「わたし」や「18才」だろう。 本編が「授業中、こっそり掃除ロッカーに入ってみた先生」で幕を開けることにも注目したい。自分が気付いていないだけで、隣にいる彼や彼女はこっそり掃除ロッカーに入ってみたり、アホみたいな格好で宅配便を受け取ったり、架空の一ノ瀬くんと会話したりしているかもしれない。そのことが、私たちにほんの少しの不安とときめきを与える。自分が見落としているだけで、すぐ近くにはこんなにも不思議で豊かな世界が存在しているのだ。まるで電子レンジに入れっぱなしで忘れられているかぼちゃのように。「酢飯の夜」「夏祭り」「夜」「美しい夜」「深夜0時」の世界のような、“それぞれの夜”が今もこの世界のどこかで営まれているかもしれない。(自分は数ある作品の中で「夏祭り」が群を抜いて好きなのだけど、これについては青春ゾンビのヒコさんの評が素晴らしすぎるので割愛します)

 

前作「夏がとまらない」までの2コマという制約を取り払ったことで作品は深みを増していて、まとめて読むことでその詩情や文学性を強く感じてしまうのだけど、もちろん藤岡拓太郎作品のベースにあるのはナンセンスでキレのある“ギャグ”だ。個人的には「夏が来ます」が大好きで、オチでストレートなやりとりが不意に差し込まれる瞬間がとんでもなく心地いい。そして、服を交換したがるおじさんがあくまで“脇役”にしかなっていないという、そのズラシがたまらなく面白く、かつ藤岡拓太郎の本質がそこに宿っているような気がする。

藤岡拓太郎の作る笑いについて、彼の表現はまぎれもなく“ギャグ漫画”であるからして、吉田戦車うすた京介和田ラヂオおおひなたごうといった希代の作家と並べて語るのが適切だと思うのだけど、自分は思い切って松本人志と接続してみたい。普通の日常とは違う“不条理”としか呼びようがない世界なのだけど、その肌触りは決して無機質なんかではない。不条理だからこそ浮かび上がってくる哀愁やペーソスといった情緒は、「トカゲのおっさん」に代表される「ごっつええ感じ」の諸作品のようではないか。本書の収録作をもとに書かれた「大丈夫マンの歌」の歌詞、その言葉の連なりはまるであの大名曲「ああエキセントリック少年ボウイ」だ。

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最後にもう1つだけ、藤岡拓太郎的だなと思うコントを。「じじい、ばばあをチャリに乗せる」、とってもいいタイトルだ。ルックスもどことなく藤岡拓太郎漫画に出てきそう。

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藤岡拓太郎を間に挟んだ三段論法を用いると、モダンタイムス≒松本人志という一見とんでもない式が成り立ってしまう。しかし、松本人志のコントに尼崎で過ごした頃の心象風景が色濃く反映されていること、モダンタイムスのコントが彼らと縁深い蒲田が舞台になっていることを考えると、あまり乱暴なことは言えないが、そう不自然な式でもないような気がしてくる(自分が初めてこのコントを見たのは2018年のキングオブコント準決勝で、その時は「蒲田の夫婦」的なタイトルだったような気がする。ちょっとうろ覚えだけど)。この世界中、どんな場所でも“それぞれの夜”が営まれているのだ。