思うことはいつも

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霜降り明星「ポケットいっぱいの秘密」というポップカルチャー

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皆さん、昨夜の霜降り明星オールナイトニッポン0は聴きましたでしょうか。既に一部で話題沸騰となっているこの放送。なぜ話題になっているかというと、週刊文春にスキャンダルが出た翌々日の放送で、あろうことかそのスキャンダルには一切触れず、2時間丸々「ポケットいっぱいの秘密」というコーナーをやったからです。
※「ポケットいっぱいの秘密」というのは、1972年作曲家の平尾昌晃先生が香港から連れてきた香港の妖精中国名陳美齢ことアグネスチャンの名曲「ポケットいっぱいの秘密」に乗せてリスナーが知っている秘密を紹介するコーナー。という体の何でもありの無秩序無規則コーナーです。

スキャンダルが出た(真偽が定かではないにしても)翌々日にそんなコーナーを2時間フルでやってしまうという芸人としての気骨ももちろんすごいのだけど、そんなことより僕はもうとにかく、この2時間に霜降り明星せいやを構成するもののすべてが詰まっているような気がしてグッときてしまった。“石川晟也の面白いと思うもの”が、ポケットがはち切れんばかりにパンっパンに詰まっていて、たまらない気持ちになってしまったのだ。おびただしい程の引用やパロディが、混然となって一つになったりならなかったりしている。これをポップカルチャーと呼ばずしてなんと呼ぼう。

2時間にわたり、せいやが大好きな昭和の芸能文化であるデューク・エイセス「いい湯だな」、トニー谷「さいざんすマンボ」、4ヶ国語麻雀、笑点デンセンマンの電線音頭、ドリフのツーレロ節、男はつらいよザ・スパイダースを筆頭に、鎮座DOPENESSM-1グランプリマネーの虎ジャッキー・チェン「スネーキーモンキー 蛇拳」、イロモネア、坂田利夫、ミキ昴生山田勝己らんま1/2アンカツ松本伊代センチメンタル・ジャーニー」、ご飯がススムくん、エスパー魔美、仁鶴師匠、カイジスーパーマリオ太鼓の達人織部金次郎、金八先生財津一郎財津和夫サザンオールスターズ、いいとも最終回、ストリートファイターチュンリー、バック・トゥ・ザフューチャー、赤プルチューボーですよ!、インディアンス、ポケモンニャース中田カウスと、もうありとあらゆる古今東西のエンタメ、カルチャーが湯水のごとく溢れ出てくる。そしてそれらを包み込むのは、せいやが何よりも愛してやまないアグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」だ。そう、何より素晴らしいのは、これらの元ネタの参照点があまりに無邪気で純粋な“好き”や“面白い”に溢れているところ。これはもはやEnjoy Music Club「100%未来 feat.三浦直之(ロロ)」に匹敵するような引用と愛情なのではないでしょうか。なんて余談は置いておくとして、僕は「この人はこういうものを面白いと思ってるんだ」と知れる瞬間が大好きで、そんな瞬間のためにお笑いを見ているのかもしれない、なんて思ってしまった。

そしてせいやはそんな自分の思う“面白いもの”に、抜群の身体性で新しい命を吹き込んでしまう。いいともの最終回を再現するだけでなく、中田カウス安田記念を走らせたりなんかしてしまう。織部金次郎を無限ループの中に閉じ込めたりなんかしてしまう。安田記念を走る中田カウス、最高ですよね。個人的にはそこと、フリ終わってないのに出てくる仁鶴師匠がハイライトです。もちろん2時間ツッコミ続ける粗品も本当にすごくて、「おもんないトータルテンボスさん」とかめちゃくちゃ笑ってしまった。そして何より粗品の「もうええわ!」が大好き。数ある「もうええわ!」の中で、粗品の「もうええわ!」が一番好きだ。浜ちゃんの「もうええわ!」よりも好き。

逆境と呼んでいいのかわからないけど、はたから見たらそう思える状況を、好きなものを武器にサバイブしていくってなんて素晴らしくてかっこいいのだろう。そして何より忘れてはいけないのが、あらゆる先人たちが残していったカルチャーの引用の中に、自分たちのネタを紛れ込ませたこと。それもコンビ結成当初のネタからブレイク後の代表作「野党!」まで。そう、これはまぎれもなく霜降り明星の物語なのだ。膨大かつ偉大なカルチャーに自分も名を連ねるという意思と覚悟…なんて思いが込められてるかはわかりませんが、そんな深読みさえしたくなるような放送だった。もしかしたら、昭和の芸能が好きなせいやみたいに、令和のお笑いが好きな50年後の芸人が「野党!」を引用しているのかも…なんて思うとワクワクしてしまいますね。

まだ聴いてない人は、1週間タイムフリーで聴けるので是非。

http://radiko.jp/share/?sid=LFR&t=20200620030000

アンタッチャブルのシカゴマンゴ 本当の最終回

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アンタッチャブルのシカゴマンゴの本当の最終回。10年間ずっと待っていたんですよ、この時を。なのに蓋を開けたら一番印象に残ってるのが「TCTT」ってどういうこと?
当時中学生で、シカマンでラジオの面白さに目覚めた自分にとって、シカマンはハッキリと青春だった。録音した音源を何回も聞きながら(オリンパスのラジオサーバー!)、毎週放送内容をノートに書くなんて最初で最後の体験だ。そんな番組がパーソナリティの一人が不在の中終わり、それ以来10年間ずっと本当の最終回を願っていたはずなのだ。なのに頭にこべりついて離れないのが「テンガチンポタマキンテンガ」って何? 最高だ。

シカマンは他の番組と比べてリスナーとパーソナリティの結びつきが強い番組だったと思う。しかしそれでも復活にあたって誰もが抱く、「番組のことやリスナーのことなんて忘れてるんじゃないか?」という不安。しかしそんな不安は開始早々「もう鮭だね。鮭缶っていたけど。」という言葉で消えていく。二人は想像以上に番組のことを覚えていた。過去の常連の名前を聞くたびに発される「元気にしてるんだねぇ~ ありがたいありがたい」「お!懐かしいな、みんな」なんて言葉にたまらない気持ちになってしまう。「僕の彼女は芸能人」を覚えている人がこの世に何人いるのだろう。

もうとにかく、すべてが10年前と地続きのように当たり前に何も変わらずそこにあるのだ。ザキヤマのネタ読み、しばんちゃんの引き笑い、作家の高橋さんの高笑いは勿論、例えばしばんちゃんの「○○でございますね」という細かい言い回しにすら10年前を感じてしまう。そして当たり前のように集まってくる常連リスナーたち。この10年どこで何をしてたかも一切知らないけれど、どこかで同じように復活に待ち望んでいて、その喜びをメールにぶつけたのだと思うとグッときてしまう。

勿論この10年で変わったこともある。例えばツッコミ先行宣言。かつてはオードリーやナイツやブラマヨがお決まりだったけど、10年経って顔ぶれも丸っきり変わった。それでも相変わらずBOOMERさんが若手のネタをパクろうとしているのは可笑しくてたまらない。それにしてもザキヤマのネタ読みの腕の鈍らなさ! 他の芸人のネタを丸々読み上げてしまうコピー芸も勿論なのだけど、短いネタを読むときの強弱の付け方や演じ分けがもうべらぼうに上手いのだ。もう「これしかない!」っていうような面白い読み方をしてくれる。ぼくはザキヤマこそ爆笑問題太田、ナイナイ岡村に引けを取らないネタ読みの名手だと思っています。

モテないシリーズはどうしようもなく情けないのに明るいのがとにかく最高なのだ。ルサンチマンみたいなものを一切感じさせない、カラッとした笑い。情けなさや卑屈さをばら撒きながら、それでも懸命に生きている愛すべきモテない男たちが目に浮かぶじゃないですか。そして「桑田のバスタオル」なんていうニュアンスの“モテなさ”を面白がるのは、「緑の中を走り抜けていく茶色のコロナ」に瞬殺されていたあの頃から何一つ変わっていない! 替え歌の歌詞のテイストや上手いのにネタの邪魔にならないしばんちゃんの歌唱力はあのころのままなのに、あいみょんに髭男と選曲はしっかりアップデートされているのもとても嬉しい。これは10年前の再放送なんかではなく、まぎれもなく2020年のシカマンなのだ。TCTTとかいうモテない替え歌の鬼っ子みたいなネタが生まれたのも、10年の沈黙が生み出した突然変異のように思えてならない。ザキヤマが相変わらず「残しの美学」を語っているのも最高だ。面白いネタが読まれたときの二人のトークの広げ方、すべての番組で一番好きかもしれない。

番組終盤、ザキヤマが「10年前の最終回の方がグッと来た」なんて言ってたけど、それも頷けるような、それくらい通常回のような放送だった。来週あたり毒舌ヒーローとかもやるんじゃないかと思っちゃうような。それでもいざ終わるとやっぱりさみしいものなのだ。祭りの最中はひたすら楽しいけど、終わってしまうとやっぱりさみしい。いつかまたしれっと帰ってきて「こんなのが聞きたかったのかな」なんて言いながらくだらないネタにゲラゲラ笑っていてほしい。そのときモテない替え歌には何の歌が使われてるのか、BOOMERさんは誰のネタをパクろうとしてるのか、しばらくはそんなことを楽しみにしていようと思う。

GOMES THE HITMAN『memori』

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昨年12月、GOMES THE HITMANの14年ぶりのアルバム『memori』が発売された。これが単なる復帰作におさまらない、とても素晴らしいアルバムだ。

歌詞を持たないアカペラの『metro vox prelude』(パパパコーラス!)に続いて、リード曲である『baby driver』が始まると、ギター、ベース、キーボード、ドラムが順番に入ってきて、一つのバンドアンサンブルを奏で出す。こんなにも復帰作にぴったりな始まりはないだろう。

『baby driver』はその名の通りドライブによく似合う軽やかなギターポップだ。その曲中で彼らは理由もなくどこか遠い場所を目指す。そしてその遠い場所が「海」であると明かされた瞬間、僕はたまらない気持ちになってしまったのだ。

彼らにとっての「海」が、単なる海ではないことは、約20年前のアルバム『down the river to the sea』の歌詞カードに書かれたリード文を見てもらえればわかるはず。アメリカの児童文学のようなリズムに、目の前まで香ってくるような夏のにおい、もうこの世で最も好きな文章の一つなので、全て引用してしまいます。

川を下って海へ行く。
僕らにはミシシッピ川や聖なるガンジスもない。
僕の回りにはハックル・ベリイフィンもいないし、相棒ジムもいない。
それでも川を下って海へ行く。魔法を信じて川を下る。
サバービアを抜けていく。寒い夜を越えていく。
ハミングで真夏の方角へ。
センチメンタル・ジャーニーの途中でもう一度あの娘に会えないかな。
照りつける太陽に僕らの舟は溶けてしまいそう。
涼しい風、プラムの実と甘い珈琲。
つまるところ、最後に残ったのは僕らだけじゃないか。
つまるところ、僕らしか必要ないじゃないか。
海があればそれでよかった。
海があって本当によかった。
川を下って海へ来た!

ここで出てくる海というは、当時の文脈からしても、あの偉大かつ凶悪なアンファンテリブルが「行くつもりじゃなかった」と嘯いた、あの海であると言い切ってしまおう。90年代の日本のギターポップネオアコといえば、やはりFlipper's Guitarは無視できない存在で、GOMES THE HITMANもその例外ではなかったはず。それを裏付けるように、『down the river to the sea』の歌詞には、「意味のないセリフ」や「カレイドスコープ」など、フリッパーズ的なガジェットが散見される。(余談であるが、『会えないかな』に出てくる「黄色い花束」をフリッパーズ的な花束として解釈すると、とても切なく感動的だ。)

しかし、この名分の書き出しは「川を下って海へ行く」であるからして、「海へ行くつもりじゃなかった」なんていう嘘にまみれたシニカルな態度に真っ向から反発している。最終的には、「海があって本当によかった」なんていう全肯定さえしてしまっている始末。
フリッパーズの言う「海」というのは、後に小沢健二がソロで何度も口にする「本当のこと」と、そのままイコールで結ばれているはずで、つまりこの名分は、「確かなことなんて何もないけど、目の前の川だけを頼りに本当のことへと向かっていこう」という、何より大切なことが書かれているのです。

なんだかすっごく遠回りになってしまったけど、だからこそ僕は、GOMES THE HITIMANがまだ海を目指していると知ってとても嬉しくなってしまったのだ。時間の経過なんてものが生み出す無力さにからめとられることもなく、達観することもなく、4人を乗せた車は道なき道を超えて、海(=本当のこと)を目指していく。

もちろん、『baby driver』以外も素晴らしい曲ばかりだ。ソロ活動を経てますます充実した歌とメロディに、少年性と落ち着きが宿った声、そして復活作とは思えないような有機的で瑞々しいバンドアンサンブル。特に、『魔法があれば』はGOMES THE HITMANの面目躍如とも言える最高のギターポップ。美しいコード進行と気持ちのいい譜割りに、つい「そうそう、ゴメスってこういうバンドだよな!」と唸ってしまう。

そして、一見そんな軽やかなナンバーに目を奪われてしまうが、どちらかというとこのアルバムはダウンテンポのバラード調の曲の方が多く収録されている。そんな楽曲の中には、やはりそれでも、いくつもの『時間の経過で失われたもの』が描かれている。

なにひとつもう変わらないって思ってた
誰ひとり もう傷つかないと信じてた

懐かしい名前 思い出してゆく顔
かけちがった記憶と昔話

しかし、そんな時間の経過に対する祈りを込めた曲たちも、なんだかとっても抜けがいいのだ。
まだ若かったomniやrippleの頃とは違う、『新しい青の時代』以降の''祈り''だと思わせる何かがきっとある。

僕はまだこの街で あてもなく言葉を探しているから

そんな言葉がなんだかとっても輝いて見える。
ここには、時の流れとともに変わったものと変わらないもの、その両方がある。

今週気づいたこと その3

7/15。
粗品TVの余韻が抜けない。
間違いなく霜降り明星の年表において、いや、もしかしたら令和のバラエティの歴史においても、とても重要な番組になるかもしれない。タイムループというコンセプトをバラエティに持ち込むという平成生まれ的な感覚、そのコンセプトとツッコミ企画のシナジー、散りばめられた「繰り返す」というモチーフ、そしてそれを全てやってのけることに違和感がない粗品という芸人の説得力。
しかし、この番組が素晴らしいのは、そのコンセプトや展開が単なる実験的精神だけでなく、かつて本人が「エンドレスエイト」に例えたように何回も落とされ続けたR-1ぐらんぷりとそのループからの脱出(=優勝)という、粗品自身の物語から来ているところだ。そんなループからの脱出の物語をR-1ぐらんぷり優勝特番でやってしまうのもまた恐ろしい。粗品という芸人の魅力が、センスやスマートさだけでなく、その裏にある人間的な部分に支えられてるのだなと、M-1優勝以降つくづく思う。
1994年生まれ、ほとんど霜降り明星と同世代の僕は、物心ついた頃からダウンタウンはもちろん、ナインティナインもすでにテレビスターの階段を上りきっていた。くりぃむしちゅーだって気づいた頃にはすでに売れっ子だったし、有吉の復活劇とかはあったけど、所謂スターの''登場''は見ていない。そんな、テレビスターとYouTuberの狭間の世代の僕は、お笑いスターの階段を1から上る瞬間を、霜降り明星で始めて目撃している気がする。
この番組の最後のループで、粗品がいくらの代わりに手にしたのはマグロ。止まったら死ぬと言われているマグロのように、お笑いのスター街道を泳ぎ続けてほしい。

 

今週のお笑いでいうと、3回もの引き分けにもつれ込んだ、座王アインシュタイン稲田vs銀シャリ橋本の「叫び対決」にも心が震えた。千原ジュニアのつけた「思想vs生活」というキャッチコピーも素晴らしい。面白すぎて、途中で流れた「今日も嫌がらせ弁当」のCMの篠原涼子の叫び声すら面白く感じてしまった。

 

7/13の土曜日には、GOMES THE HITMANの20周年ライブを見に行った。僕が6.7歳の頃に出たアルバムがまた新しい形で世の中に出ていて、25歳の僕はその音楽を目の前で聴いているなんて、とても素敵だと思う。

絶対このタイミングでやることではないのだけど、ブログのタイトルを変えてしまった。『思うことはいつも』、名曲だ。当面はこのタイトルで行こうと思う(できればずっと!)。改めてアルバム『cobblestone』を聴くと、あまりに丁寧な街や暮らしの描写と、それを支える美しいメロディに驚かされる。ここ何年かのシティポップの傑作たちが束でかかっても敵わない。

江本祐介の『Live at Roji』をようやく聴いている。今年は『ワゴンR』を沢山聴く夏になりそうだ。ファンファーレの頃の□□□みたいな、切なくなるほど瑞々しい最高のポップチューン。江本祐介や三浦康嗣、かつての山田稔明のような、少し鼻にかかったモラトリアムな歌声に誰か名前をつけてほしい。

ナツノムジナの『Temporary Reality Numbers』は、とても傑作な気がしている。

この曲、タイトルも歌詞も、ひんやりとした音像も本当に最高だ。

ふと聴きたくなって、神森徹也の名盤『GREATEST HITS』を聴いていた。(こういう音楽をすぐに聴けるのが、Apple Musicの良いところだと僕は思いますよ)しかし、神森徹也は日本のポップミュージックの歴史から無視されすぎではないか?キラーチューン『レミレミ』だけでももっと多くの人に聴かれますように。

この世で最も俗っぽくて切実な祈りたち。
自分の中にある神聖なものに必死に手を伸ばすように、彼はずっと祈ってる。

 

日曜日はきたもとの誕生日を祝って、美味しい中華を食べに行った。白金にある「私厨房 勇」というお店。
中華とは思えないような口当たりの上品さに驚いてしまった。後味のさっぱりした「牛頰肉のフレッシュトマト煮込み」と、炒め物とは思えないシャキシャキ感のある「帆立貝と中国野菜の炒め」が特に絶品でした。

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美味しいものを食べて「○○の概念が変わった」なんて常套句、ウソばっかりだと思っていたけど、困ったことにこれは本当に中華の概念が変わってしまった。ということは、「○○の概念が変わった」という言葉の概念も変わったことになる。概念はすぐに変わる。
独特の酸味がある担々麺も、辛さと旨味のバランスが絶妙で、どんな坦々麺の専門店より美味しかった。

 

今一番ハマってるあるあるは、「溜まった雨で道のくぼみを知る」です。

今週気づいたこと その2

7/7。七夕なのでChappieの『七夕の夜、君に会いたい』を聴きながらこの日記を書いている。とんでもなく豪華なメンバーが参加してるChappieのアルバムだけど、森高千里の声の存在感は圧倒的だ。


家に帰ったら、コジコジのおりひめとひこぼしの回を読もう。

「あの人が来ようが来まいが待つよ
今年も来年もずーっと待ってるよ
何万年も愛し合ってたんだから
ハンパじゃないんだからね...」
というおりひめの台詞、ラストの『みんなげんき コジコジ』という願い。名作だ。


土曜日には、シソンヌの単独ライブ[huit]を見に行った。
まだ続いてるのでネタバレになるようなことは言えないのだけど、コントへのテーマの持たせ方がやはりとても素晴らしい。OPコントから幕間映像まで通底するテーマが、最後のネタでは核心に迫って語られる。
そんなある種哲学的で社会的な作品を、キャラクターや台詞の造形で''コント''としか呼べないものにしてしまうのが恐ろしい。

 

テレビ朝日の太田松之丞を見たのだけど、もう面白いを通り越してる愛おしかった。2人の関係性は最高にキュートだ。もうお題とか無しに永遠にフリートークしていてほしい。

永野のモチが喉に詰まった新沼謙治は最高に面白いですね。いや、永野はいつだって最高に面白いのだけれど。ネタパレの時は森進一だったけど、どういう計算でそこを変更しているのだろう。

テレビ千鳥はもはや安定の面白さなのだけど、きたもとがえらく気に入って、録画を3回くらい見ていた。


あとは、ドキュメント72時間に久々にとてもグッときてしまった。
街の中に変わらずあり続ける場所と、その中で流れていく人と人。何でもない場所に透けて見えるドラマ、みたいな回に弱い。
映像の質感も何だかいつもと違った気がした。


あまりにジメジメしているので、夏を取り戻すべく、せめてもの抵抗でCaro Kissaの『熱中症』や朝日美穂の『夏のトレモロ』をよく聴いていた。朝日美穂の『夏のトレモロ』は油断すると一生聴いてしまうから大変だ。

今週発表された中村佳穂の『LINDY』もよく聴いていた。明らかに次のステージのドアを開けたと思うのだけど、そのドアがどこにつながってるのかわからない不思議な感覚。


シャムキャッツの12月のSTUDIO COASTのライブに申し込んだ。
4月のVIRGIN GRAFFITIツアーが本当に素晴らしかったので、今から本当に楽しみでしょうがないです。
このインタビューもとてもよかった。
https://bamp.is/interview/ishizaki01.html

居心地の悪さを感じながら、わかりやすいカウンターにならないっていうのは、結局自分たちはめちゃくちゃ日本っぽいバンドだなと思ってるところでもあって。わかりやすい音楽性を示すんじゃなくて、そういう気持ちを持ちつつ、生活に近いところから攻めるっていうのは、すごく日本っぽいと思う。

日本っぽいというとなんだかドメスティックな気がしてしまうけど、やっぱりシャムキャッツのそのさりげなさがとっても大好きなのだ。疲れた時に聴く逃亡前夜は本当に涙腺が緩んでしまう。日本における逃亡の音楽の名作といえば、スピッツの『名前をつけてやる』で、とても大好きな作品なのだけど、シャムキャッツの『VIRGIN GRAFFITI』はもっと地に足がついた現実的な逃避な感じがして、今の僕にはそっちの方がリアルに感じられたりする。


今一番ハマってるあるあるは、「真昼の川、想像以上に眩しい」です。